東海道(とうかいどう)とは 《鉄道・旅行・料理》

京師より太平洋に沿って東方に至る地域または街道名。崇神(すじん)天皇のとき、四道将軍の1人、武渟川別命(たけぬかわわけのみこと)が巡視した東路(うみつみち)、日本武尊(やまとたけるのみこと)や景行(けいこう)天皇が東国に赴いたときの道と伝承する、三浦半島から房総半島へ渡るのが古代の道であったのであろう。

律令(りつりょう)制では行政区画の五畿(ごき)七道の一つである。すなわち初めには伊賀、伊勢(いせ)、志摩、三河、尾張(おわり)、遠江(とおとうみ)、駿河(するが)、伊豆、甲斐(かい)、相模(さがみ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)の13か国であった。718年(養老2)上総の4郡を割いて安房(あわ)国を置いたが、741年(天平13)旧に復し、757年(天平宝字1)にふたたび安房国を置いた。

また771年(宝亀2)に武蔵(むさし)国を東山道(とうさんどう)より東海道に転属し、これより15か国となった。道筋も相模より武蔵を経て下総に入ることとなった。

行政上では各国に国司が置かれたほか、東海道全域に対して巡察使・観察使などの派遣されることもあった。

これら諸国を結ぶ街道も東海道というが、都が大和(やまと)にあったときには、伊賀国に入り、それより伊勢、志摩を経て尾張、三河に達したが、都が山城(やましろ)に移ると、近江(おうみ)から鈴鹿(すずか)峠を越えて伊勢に入るようになった。

令制によれば、街道には駅が設けられて、公使の利用に供せられたのであるが、『延喜式(えんぎしき)』の諸国駅伝馬の条には伊賀と伊豆両国には記載がない。

主要路から外れたことになる。これら駅の所在については明確でない所も多く、したがって古代の東海道の道筋のすべてを明らかにすることはできない。

平安時代の初め802年(延暦21)に富士山が噴火したため、足柄(あしがら)道を廃して「筥荷途(はこねじ)」を開いたが、翌年には足柄道が復旧して、官道はもとに戻った。

鎌倉時代になると、鎌倉と京都の間が最重要路となり、幕府では宿ごとに早馬を常設するなどのことをしている。

また公私の旅行者の増加によって宿駅に遊女が集まるようにもなり、天竜川畔の池田宿、浜名湖畔の橋本宿などがとくに著名であった。

なお鎌倉時代からは、鎌倉と京都の往来に、熱田(あつた)から美濃(みの)路を経て東山道の近江から入洛(にゅうらく)、また逆に下洛する道筋も用いられた。

戦国時代には、東海道諸国は群雄が競い興り、尾張の織田(おだ)、三河の松平(徳川)、駿河の今川、甲斐の武田、相模の北条などの諸氏が勢力を振るい、それぞれの領内には伝馬制度が発達した。
update:2009年08月21日